禅とパスタ。

 司馬さんいわく禅は、煮詰めてしまうと無神論になってしまうそうです。江戸あたりだと侍の殆んどが禅宗になったとか。門徒さんは、横の結束がかたいから京都本山ばかりが中心になり、武家社会には、とても不都合であったのかもしれません。禅は、インドから達磨さんがもってきたのが中国に入り、現世利益のみに終始のあまり人気をなくしたとか。むしろ日本に入ってきたことで、更なる発酵を遂げ形而上的な意味合いを多分に構築していったものと思われます。わび、さび、や日本人特有の美意識が加味されたのだと考えます。なにか日本が卸し元になった感があります。インドで発案中国を渡って日本で完成の域に達したようにも思えます。幕末の志士は、信長時代の門徒宗の「南無阿弥陀仏」を言わなくても平気で死ねるようになっていくてところが面白く映ります。 墓石にも戒名がついてなくて山田一郎之墓てなことで無神論が確立してる。近年、宗旨がキリスト教であっても禅学に傾倒する人たちが多いとか。禅宗を煮詰めると無神論になることがなんともあっさりとして解りやすい解釈だと思います。空とか無もややこしいし。無常の本質も万葉時代のものが仏教に取り込まれたとも聞きます。公家がせっせと無常を詠みながら実は、初期の阿弥陀信仰者であるんやからなんと極楽に往生したいと思う欲の何者でもないわけで、「無常」が一種のの流行語の様にもてはやされていたような感じでは、ないかと考えます。と、お風呂の中で無念無想の境地に達したとき 新メニュを思いつく。ナンプラーベーススープのパスタ早く試作してみよ。てか。

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